自立は本当のわたしとの出会い

「自立」って何でしょうか?

 

一般的によく使われるのが、子供が親から自立する、という意味で使うことが多いですよね。

・経済的に自立する→自ら収入を得て生活ができる。

・生活面で自立する→身の回りのこと(衣食住)を自分の力でできるようになる。

というイメージでしょうか。

自立することが良い、とか、自立が必要だ、というイメージで使われることが多いのではないかと思います。

 

辞書によると「自立」とは

大辞林

①他の助けや支配なしに自分一人の力で物事を行うこと。ひとりだち。独立。

②自ら帝王の位に立つこと。

広辞苑(第5版):

他の援助や支配を受けず自分の力で身を立てること。ひとりだち。

デジタル大辞泉コトバンク):

①他への従属から離れて独り立ちすること。他からの支配や助力を受けずに存在すること。「精神的に自立する」

②支えるものがなく、そのものだけで立っている。「自立式のパネル」

 

などが出てきました。

ひとつの言葉でも、共通のところと、少しづつ解釈のニュアンスが違うところがありますね。

「何を基準として」「どこまでの範囲」で定義しているのかの違いなのかなと思いますね。

 

ちなみに

「言語」というものは、人格や、国を形成し、物事の定義を司り

認識を揃える道具として使われる、ものすごく重要なものなんですが

意外と「なんとなく」使っていることが多いと思いませんか?

ニュアンスで、とか。感覚的に、とか。

以前の私はそうでした。というかそこまで考えたことがなかったということが正直なところ。

「言語」については脳科学などにも関わるところなので改めて書きますね。

 

今日は「自立」というところのテーマで。

私自身は、「早く自立しなくては、自立したい」という思いは中学生くらいから芽生えてはいたと思います。そういう意味で初めてアルバイトをしたのが中学生だったので。

もう少し遡ると、「1人で立つ」という意味では

幼稚園に入る前からお母さんが働いていたので、お母さんも忙しいから「迷惑かけないように、1人で何でもできるようにならなくちゃ」という決断が幼少期にありました。

けれどこの「1人で何でもできるようになる」「迷惑をかけないように」

という決断が、実は自己矛盾を生み出すことにつながっていくんですね。

私は3人姉妹の末っ子なんですが、小さい頃は未熟じゃないですか。早くに「1人でできるようにならなくちゃ」という自立心を決断しても、どうしてもできる範囲には限界があって、誰かに助けてもらったりするんですね。

そうすると「また1人でできなかった(迷惑かけちゃった)」という思いを

何度も何度も蓄積してしまうんです。

それが「(1人でできない私は)迷惑をかける存在だ」というアイデンティティになってきますので、一生懸命、迷惑をかけないように頑張るわけです。

今思うと、人間関係の中で、迷惑をかけていないかという基準でいつも心は無意識的に不安でいっぱいでした。

本当は一緒にやりたいけど、もっと甘えたいけど、一人で頑張らなきゃ、というほうが優先するので、頼りたいことでも遠慮してしまったり。

そんな自分だと、上手に人に甘えたり頼っている人や、そもそも「できなーい」という人をみると、「なんでこんなこと1人でできないの?」とか「誰も最初からできる人なんていないのになんでやらないの?」と見下したり、責めたりする思いが生まれるんですね。

だけど頼り上手な人の方が物事がスムーズに流れたりすると、「やっぱり私は要領が悪い、迷惑をかける存在なんだ」と自分を責めたり、ジェラシーが生まれたり、そんなジェラシーする自分も嫌でしかたなかったりして。

自立と依存の矛盾。依存と協力の違いも難しかった。

また過去の自分に比べると、成長してできるようになったことが増えてきても、回りを見渡すと、常に「まだできるようになっていない」ことはたくさんありますので、いつまでも「まだできていない私」が常にあり続けるので、心が休まらず大変でしたね。

心は疲弊しながら、感情をマヒさせて、走り続けていた感じです。

 

そんな「自立」の罠から抜けることができたのは、本来の「自立」のあり方と出会えたからです。

 

わたしは、本当の自立は、親からの自立ではなく、脳からの自立だと思います。

細かく言うと、脳が生み出している概念の外に出ることが、本当の自立だと思います。

別の角度からいうと、「この体が自分だ」と思い込んでいる今までの脳の基準から、

「すべての根源(やSomething Greatや宇宙の始まりと言ってきたところ)」である本来の創造主がわたしだ、という基準に変わって、初めて自立といえるということです。

 

つまり自分が、宇宙の中の銀河系の中の地球の中の生命体としての人間の親から生まれた存在だ、と認識しているうちは、本当の意味での自立はできないといえます。

 

だって「他への従属から離れて」とか「他の助けや支配なしに」って、

地球の重力とか物質的な「支配」を受けていない人いますか?

自然に「従属」しない人いますか?

また

人間社会で国民として国家の一員である国籍をもつ時点で、そこに「従属」するし、

いつからか誰かによって定められた「法」による支配も受ける。

いかに「自分ひとりで独立をするんだ!」といきがってみても、この体が主体の自分である限り、絶対に自然環境や人間関係、何かしらと関係しあいながら生きているし、助けも必要だって思いませんか?

だから、逆にこの今までの定義の中で「自立してます」って言うことは、すごく部分的な条件の中の事象をとった、思い込みの中だということがわかります。

 

じゃぁ、なぜ人間は、自立というものを求めてきたのか?

そこが問題ですよね。

本当の自分は、体の範囲の自分ではないということが心のどこかでわかっているからです。

 

本当のわたしと出会って(いや、本当のわたしを取り戻してといった方がいいのか)

そこから自ら脳を使って生み出している世界(宇宙)を生きる時に

誰もが自分の認識の宇宙の帝王である(あえて今までの定義の使うならば)といえるのではないでしょうか。

 

次のブログではこの認識にいたるまでのお話を書きますね。では!